TEL / 0749-62-1250

開館時間 / 9時から17時まで(入館は16時30分まで)

  

当館についてABOUT

当館について
(※姉川河川敷の指定地で撮影)

国友鉄砲ミュージアムについて

  • 国友鉄砲ミュージアム
  • 国友鉄砲ミュージアムは、1987年(昭和62年10月)滋賀県長浜市国友町に開館しました。木下藤吉郎(豊臣秀吉)が建てた長浜城から北東へ約5km、姉川に沿った国友村にあります。火縄銃専門のミュージアムで、住民の手によって経営している全国でも珍しい鉄砲ミュージアムです。

    近年、世界的な火縄銃人気の高まりから、アメリカ、イギリス、ドイツ、スエーデンなどからのお客さまがふえています。お客さまは火縄銃を所持しているマニアの方が多く、国友の銃は、①鉄が黒光りしていて錆びない②機関部(カラクリ)の細工が良いため故障が少ない③キラキラとした飾りが少ない④しっとりと手になじみやすく重さを感じない⑤全体と部分のデザインが優れている⑥命中率が高い、といった高い評価をうけています。

    国友の村の中を旧北国街道が南北に貫いていました。京を目指す武将たちが避けて通れない土地でした。国友には古代から鍛冶技術があったのです。北を望めば正面に小谷山。いちど国友村に立ってみてください。

国友への鉄砲伝来

戦国時代を変えた国友鉄砲鍛冶
  • 海を渡ってきた文化
  • 海を渡ってきた文化

    天文12年(1543)8月25日、種子島の門倉岬に一艘の中国船が嵐のために漂着した。そこに乗っていたポルトガル人から、初めて日本に2挺の鉄砲が伝えられる。

    以降、国友・堺・根来など各地で鉄砲が作られた。鉄砲の伝来と共に新しい文化や特にネジの開発によって、大きく日本の歴史を変えた。

  • 国友鉄砲鍛冶
  • 国友鉄砲鍛冶

    種子島に伝来した鉄砲は、早くも翌年から鉄砲を作り始めた。次朗助のネジの開発は大量の鉄砲の製造に成功し、鉄砲の最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人を越す職人がいた。

    鉄砲は、銃身を作る「鍛冶師」銃床を作る「台師」と引金や火ばさみ部分(カラクリ)を作る「金具師」の3人(分業)で1挺の鉄砲が出来る。また、彼らは、年寄・年寄脇・平鍛冶と組織をつくり大量の鉄砲の注文に対応した。

  • 天下人の戦い

    元亀元年(1570)姉川合戦で鉄砲は使用したが、天正3年(1575)の「長篠の戦い」では、3,000挺の鉄砲が使用され内500挺は、信長より受注を受けた国友鉄砲が使われ、信長の勝利となり、以後戦略が変わった。

    鍛冶師は、慶長18年(1613)1貫目・150匁・120匁玉筒、翌年には、10匁・6匁玉筒を多量に作り家康に納めた。その1年後、慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」では大筒を使い、「夏の陣」は中筒・小筒を使い家康の大勝利となり、徳川250年の時代が来た。